- 初代・瀧定助が、祖父である瀧兵右衛門(了意)が営む「絹屋定助」ののれんを継承し、名古屋東万町で呉服問屋を営んだのは1864年(元治元年)。衰退へと向かっていた徳川幕府は1867年(慶応3年)10月14日に幕を閉じ、翌年、明治天皇が即位。元号が「明治」と改められ、以後、文明開化、富国強兵、殖産興業の政策が推し進められて行きました。
まさに日本が近代化へと進む新しい夜明けと共に、瀧定の新しい頁が開かれたのです。
- 当時の織物問屋としては、呉服商、木綿太物商、洋反物商の3系統があり、呉服問屋は扱い品種により関東織物、尾濃織物、京呉服、関西織物の4つに分類。繊維流通業界の中心は、大阪、東京、次いで名古屋でした。
- 定助は呉服卸売業として、明治初年には京呉服、関東呉服、地場織物を販売。1888年(明治21年)に京都に支店を、翌年には製造部門として絹定職工場を開設しました。それと同時に、瀧兵右衛門らと1882年(明治15年)に名古屋銀行を、1887年(明治20年)に尾張紡績会社を設立。1891年(明治24年)には名古屋商工会議所の議員に選任されるなど、名古屋財界において確かな地盤を固めていきました。
- 初代・瀧定助が、祖父である瀧兵右衛門(了意)が営む「絹屋定助」ののれんを継承し、名古屋東万町で呉服問屋を営んだのは1864年(元治元年)。衰退へと向かっていた徳川幕府は1867年(慶応3年)10月14日に幕を閉じ、翌年、明治天皇が即位。元号が「明治」と改められ、以後、文明開化、富国強兵、殖産興業の政策が推し進められて行きました。
まさに日本が近代化へと進む新しい夜明けと共に、瀧定の新しい頁が開かれたのです。
- 当時の織物問屋としては、呉服商、木綿太物商、洋反物商の3系統があり、呉服問屋は扱い品種により関東織物、尾濃織物、京呉服、関西織物の4つに分類。繊維流通業界の中心は、大阪、東京、次いで名古屋でした。
- 定助は呉服卸売業として、明治初年には京呉服、関東呉服、地場織物を販売。1888年(明治21年)に京都に支店を、翌年には製造部門として絹定職工場を開設しました。それと同時に、瀧兵右衛門らと1882年(明治15年)に名古屋銀行を、1887年(明治20年)に尾張紡績会社を設立。1891年(明治24年)には名古屋商工会議所の議員に選任されるなど、名古屋財界において確かな地盤を固めていきました。
- 1904年(明治37年)に勃発した日露戦争に勝利した日本では、戦勝景気に湧き立ち、企業や諸産業が相次いで興ります。瀧定助は1906年(明治39年)に瀧定合名会社を設立。名古屋本店、京都支店に加え大阪支店を開設し、新たなスタートを踏み出しました。1908(明治41年)には大阪支店に貿易部を創設。好景気に後押しされ、飛躍的に売上を伸ばします。1914年(大正3年)に勃発した第1次世界大戦では、戦局の拡大に伴い軍需資材の注文が殺到。瀧定も大きく躍進し、特に大阪貿易部の活躍は著しいものでした。
- 一方、1910年代から「大正デモクラシー」による民主主義・自由主義の風潮が高まり、人々の生活を大きく変えていきます。海外ではパリ・クチュールの黄金期を迎えており、日本においても交通やマスメディアの発達で、欧米の流行が伝えられました。ブルジョワ層にモボ・モガファッションが流行し、上流階級から市民へと洋装化が広がります。また、職業婦人の台頭により洋装文化が発展・定着し、繊維業界も沸き立ちました。
- しかし、1920年(大正9年)、好景気の反動で株式市場が大暴落。生糸綿糸市場も崩落し未曾有宇の大恐慌が襲来。瀧定もまた大損害を被り、その後数年にわたり業績不振に苦しみます。さらに、1929年(昭和4年)NYの株式暴落に端を発した世界大恐慌による深刻な不況が到来し、遂には人員整理という非常事態に追い込まれました。1931年(昭和6年)金輸出再禁止を契機に日本経済は好転。昭和12年まで続く貿易躍進時代を迎えます。2度にわたる危機を乗り越えた瀧定も社内の空気を一新。1936年(昭和11年)には名古屋本店の新社屋建築を着工し、再建への意気を高めていきました。
- 名古屋本店新社屋が竣工した1937年(昭和12年)、7月に勃発した日中戦争に伴い、国内は急速に戦時経済に移行。経済統制が強化され、内地における営業が困難な状況に陥ります。瀧定は大連、天津、台北、バンコク、上海など、海外に拠点を設けて現地での商売を展開。統制下にありながらも順調に業績を伸ばしていき、1940年(昭和15年)、年来の懸案であった株式会社を設立。ここに、株式会社瀧定商店が誕生しました。
- 1941年(昭和16年)12月8日、日本は太平洋戦争に突入。すべては戦争目的に集結され、衣料においても切符制による配給の実施で、卸売業者の業務は事実上終焉を告げます。瀧定は海外拠点を重点に事業を行うものの、時局の悪化とともに窮迫。従業員が次々と招集徴用され、これまでにない窮地に立たされていきました。1945年(昭和20年)8月14日、ポツダム宣言を受諾し日本は終戦を迎えます。瀧定は空襲によって名古屋本店、大阪支店を消失。海外の拠点も終戦と共に失いました。
- ゼロの状態となった中、1946年(昭和21年)新役員陣によって再出発。戦後の混乱期に横行した闇取引は断固拒否。当面は統制外の雑品で地道に活動を続け、1948年(昭和23年)以降は登録商としての取引を軌道に乗せて行きました。また、1947年(昭和22年)には名古屋本店の改修工事と大阪支店の仮店舗の建築を行い、終戦後初めて新入社員を採用。自由経済復活と共に社内体制を整備し、再建復興を目指し邁進していきました。
- 1950年(昭和25年)、統制下にあった繊維製品のほとんどが統制を解除され、10年ぶりに自由経済が復活。1952年(昭和27年)には積極的な財政金融政策が講じられ、国民所得が戦前水準にまで回復しました。
- 日本が戦後復興に向け着々と歩みを進める中、瀧定では1954年(昭和29年)大阪支店新社屋が竣工。京都支店を統合し、新たな大阪支店を発足させました。名古屋本店は戦前の呉服を主体とする集積地卸から、毛織物を主体とする服地の元卸へと業態を大転換。新・大阪支店は京都支店が築いてきた染色加工品の製造元卸業を基底とし、全国的な元卸商として一大飛躍を目指しました。
- 1955年(昭和30年)より、爆発的な好景気“神武景気”が始まります。生産水準・生活水準ともに戦前に回復。日本は成長発展の軌道に乗り、「黄金の60年代」と呼ばれる高度成長期へと突入していきます。
- 60年代に入ると、第一次ベビーブーマー(昭和22~23年生まれ)の若者たちがカウンターカルチャーを広め、ヒッピー、サーフィン、モッズ、アイビーなどヤングファッションが台頭。繊維産業では合成繊維への取り組みが活発化しました。
- 瀧定は繊維専業に徹するという基本方針の下、1956年(昭和33年)経営大改革を断行。課別独立採算制を基底とし、生産元卸問屋としてコンバーター機能、生産基盤の強化、商品開発力の充実に努め、大躍進を実現します。創業100周年を迎える1964年(昭和39年)には、年商200億円を突破。今日の瀧定大阪を支える企業基盤は、この時期に形成されたと言っても過言ではありません。
- 60年代から高度成長を遂げてきた日本でしたが、1971年(昭和46年)にドル・ショックによる国際通貨不安、1973年(昭和48年)に第1次オイルショックが発生。狂乱物価の抑制策が大不況を招来し、高度成長期は終焉を迎えました。
激動する情勢の中、繊維業界も危機的状況に陥りました。反面、素材の暴落を逆手に取ったアパレル、大手チェーンストアが躍進の波に乗り、大手メーカーと大手商社主導の時代からアパレル・チェーンストアの時代へと大きく展開していきます。ファッションの多様化・混沌化が始まり、1979年(昭和54年)にはDCブランド、キャラクターブランドブームが到来します。
- 瀧定は業界の萎縮ムードに惑わされることなく、積極的に安定供給の使命達成に努め順調に推移。昭和50年度には売上高1,000億円を突破しました。70年代という激動の10年間を支えたのは、当社独自の経営理論である「問屋機能論」と「弁証法的方法論」の展開です。市場リスクへの挑戦こそが根元的な問屋機能であり、真正面から取り組むこと。仮説から実践が生まれ、実践によって正しさを確認あるいは修正し、再び実践へ――問屋の本質を貫いた経営が、激動を乗り越え、盤石の地位を築き上げたのです。
- また、当時、瀧定の主な取引先は、東京、名古屋、岐阜の生地・製品問屋、卸専門アパレルが中心でしたが、「問屋との棲み分けを明確にし、アパレルへと進むように」という指示のもと、アパレルへの販売がスタート。以後20年、増えに増え続けるカジュアルブランドをターゲットに、瀧定は着実に販売実績を積み重ねていきました。
- 第2次オイルショック以降、1980年(昭和55年)から再び景気が後退し、3年間に及ぶ戦後最長の景気低迷となりました。その後、日本経済は回復基調に転じたものの、消費意欲は減退。1986年(昭和61年)から続く円高の進行は、輸出比率の高い日本の繊維産業に深刻な打撃を与え、内需及び輸入中心に大きく転換。多くの企業が競争力強化のために生産拠点を海外へと移し、国内生産の空洞化に拍車をかけました。1990年(平成2年)からの約10年間は、内外の政治、経済が大きく動きます。特にバブルの奔騰と崩壊は、日本経済を大きく揺るがしました。
- 一方、マーケットは「軽薄短小」の時代を迎え、ファッションにおいても個性化、多様化、ファッション化志向が強まり、バブル崩壊後は消費者心理が「物から心」「ミニマル」「脱高級感」へと変化していきました。それに伴い、ものづくりにおける多品種、小ロット、短サイクルが定着し、繊維業界ではリスク回避が最大の関心事となります。
- そうした状況は、果敢にリスクに挑戦する瀧定にとって好機となりました。業界のリスク回避の要望に対応し、適時適品の安定供給を実現した結果、売上利益共に大幅に上伸。過去最高の業績をもって、創業130周年を迎えました。また、主な取引先は、専門店系卸アパレル、百貨店系アパレル、キャラクターズブランドアパレルへと大きく拡大。「他社との差別化を図りたい」「商品のグレードを上げたい」というブランド各社のニーズに応え、イタリアをはじめとする欧州の生地を仕入れるだけでなく、独自の企画・生産を展開し、繊維総合商社としての提案力を高めていきました。
- バブル崩壊後から続く“平成不況”の中で幕を開けた新世紀。規制緩和や金融緩和による経済活性化、IT産業の隆盛など、日本経済は徐々に明るさを取り戻しつつありました。
繊維業界では産業構造が大きく変化し、国内のアパレル製品市場は一貫して縮小。最大10兆円余りの市場規模は、2007年には7兆円にまで減少しました。製品調達においても輸入が増え、国内生産比率は大きく減少。また、SPAの進展でものづくりのアウトソーシングが進み、多くの同業他社がOEM業態へとシフト。一方、消費者ニーズは文化の成熟と共に多様化し、急速かつダイナミックに変化する時代を迎えました。
- こうした時代の動きに対応すべく、瀧定は名古屋店と大阪店の分社化を決意。2001年(平成13年)8月1日より、「瀧定名古屋」「瀧定大阪」として新たなスタートを切りました。瀧定大阪は、瀧定の伝統・文化を継承しつつ「量的拡大路線から“質の経営”への転換」を追求。百貨店系アパレルの主力ブランドとのビジネスに力を入れ、順調に業績を伸ばしていきました。
- しかし、2008年(平成20年)、リーマンショックを引き金に世界同時不況が到来。アパレル産業が急激に落ち込む一方でファストファッションが台頭し、時代は大転換期を迎えます。瀧定大阪もまた、従来の課別独立採算性による組織の在り方に、限界を感じるようになりました。
- 創業以来150年、つねにお客様のことを考え時代の要請に応えてきた瀧定大阪。その力をより強化するため、2010年(平成22)より中期ビジョン『チャンス・トゥ・チェンジ』を決行。3年間におよぶ組織大変革に挑戦しました。
そして、2013年(平成25)、大阪・難波に移転し、コーポレートブランド『STYLEM』導入を発表。さらに2015年2月1日、瀧定大阪を本社とする新グループ経営体制へと移行し、これまでの事業をスタイレム株式会社へと継承しました。
- 2021年2月1日、瀧定大阪株式会社とスタイレム株式会社を統合、「スタイレム瀧定大阪株式会社」に商号を変更しました。また、これに先立って、私たちは自分たちの存在を見つめ直し、あらためて当社の企業理念の言語化を行いました。ミッション、ビジョン、バリューそしてスローガン、私たちはこれらの言葉を胸に深く刻み、時代の荒波に立ち向うべく、新たに船出します。
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